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更新日:2023.01.31療法士キャリアヘレンケラー?に学ぶ。現代の療法士のあるべき姿

皆さんは、障害を持った方と接する機会はありますか?

理学療法士をはじめとしたリハビリテーション専門職は、障害を持った方と接する機会が多く、障害を持つ方の身体機能や生活状況、社会参加に至るまで、さまざまな関わりやアプローチを通してリハビリテーションを行います。
あくまでリハビリテーションは、「人対人」ですし、多くの場合、目上の人を対象とする場合がほとんどです。(そうではない場合もありますが)

つまり、あらゆる人を対象として行われるリハビリテーションにおいて、リハビリテーション専門職は、ある程度教育的な立場をとることもあり、そのためにはいろんな知識、教養を備えておくことが重要です。
これらをある程度使いこなすことで、対象となる相手とのコミュニケーションが円滑になり、目標が共有できたり、その方の持つ最大限の能力を引き出すことも可能となります。
逆に、これらがうまくいかないと「あの療法士は嫌だ」「自分とは合わない」などといったクレームをいただくことになりかねません。

では、どうすれば良好な人間関係を構築しつつ円滑なリハビリテーションを実施できるのでしょうか。正直いって、個人の力量に委ねられることが多く、マニュアルや正解はありません。(マニュアル通りにやればクレームはでない。というわけでもないのです)
というわけで、この難題は「センス」と一言で片付けられることもあります。

そこで、今回は、みなさんご存知、ヘレンケラーとその周りの人たちから、われわれ療法士が患者や利用者と向き合う際のちょっとしたヒントが得られそうでしたので、ご紹介させていただきます。

ヘレンケラー

ヘレンケラーと聞くと、イメージ的にはいわゆる「三重苦」。要は「聞く」ことも「見る」ことも「話す」こともできなくなってしまったというわけです*1(図1)*2。元々は、健康だったのですが、1歳7ヶ月ごろにこの三重苦になってしまうのです。

 

引用:イラストAC.イラスト素材:ヘレンケラーのイラスト

https://www.ac-illust.com/main/detail

 

そんな身体状況でしたが、20歳でラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)に入学し、24歳で卒業。文学士の称号を取得します。そののちも29歳でアメリカ社会党に入党し、婦人参政権運動など多くの政治的・人道的な抗議運動に参加しています。

 

ちなみに56歳の時には来日し、日本の各地を訪れています。現代の日本障害福祉分野にも多大な影響を与えた。と言っても過言ではありません。「The Miracle Worker」として舞台化および映画化され、日本では「奇跡の人」という題で何度も上演されています。私はてっきり、ヘレンケラーが「奇跡の人」だと思っていましたが、実は違っていたのです。

 

本来英語の「The Miracle Worker」は「何かに対して働きかけて奇跡を起こす人」といった意味で、実はここではヘレンケラーではなく、ヘレンケラーの家庭教師であるサリヴァン先生のことを指しているそうです。

 

もしかすると、このサリヴァン先生がヘレンケラーをどのように教育していったのかを知ることで、現代のわれわれリハビリテーション専門職が抱える課題やそれを解決するための何かヒントが隠されているかもしれません。それでは早速ですが、ヘレンケラーを支えたサリヴァン先生について説明して行きます。

サリヴァン先生

それでは、サリヴァン先生の人生について、少しご紹介しようと思います。

アン・サリヴァンことジョアンナ・マンズフィールド・サリヴァン・メイシー(1866〜1936)は、マサチューセッツ州でアイルランド系移民の農民の家に生まれ、3歳の時にトラコーマ(別名:エジプト眼炎)という感染症で失明してしまいます。さらに9歳で母親が結核で亡くなり、父親に捨てられ、側湾症を患っていた弟と2人で救貧院で暮らすことになったそうです。間も無くして、唯一の親族であった弟が結核により亡くなってしまいます。当然ですが、その時サリヴァン先生はとても悲しんだといいます。このような不幸が重なり、自身もうつ状態に陥ってしまったそうです*1。

 

それでもキリスト教の支えがあり、学校にいきたいと思うようになり、14歳の時にはパーキンス盲学校に入学します。このパーキンス盲学校というのは、アメリカのマサチューセッツ州ボストンの郊外にある視覚障害、聴力障害、そのほかの障害を併せ持つ人たちのための学習センターです。入学当初は、障害がある幼い子供たちが、自分よりも読み書き、計算などができていることに劣等感を感じており、成績もなかなか上がらなかったそうです。その中で目の手術を数回受け、なんとか視力は回復し、回復してからはものすごい勢いで成績が向上したようで、首席で卒業するに至ったそうです。

 

この反骨精神といいますか、ここまでの挫折を、しかも10代で経験してもなお、学ぶ姿勢には感銘を受けました。このような経験が、ヘレンケラーの教育に生かされたのかもしれないですね。

 

ただここで述べたい、われわれへのヒントはこのエピソードではありません。これからのヘレンケラーとの出会いが重要です。見えない、聞こえない、話せないヘレンケラーに対して、どのように教育していったのか、そのヘレンケラーがハーバード大学に合格し、人格者となった経緯について、第二部で述べていきます。

 

参考サイト

*1:社会福祉法人日本ヘレンケラー財団.ヘレンケラー物語

  https://helenkeller.jp/publics/index/50/

 

*2:

引用:イラストAC.イラスト素材:ヘレンケラーのイラスト

   https://www.ac-illust.com/main/detail

 

この記事を書いた人

阿比留友樹理学療法士(Physical Therapist) 長崎県出身。専門学校を卒業後、回復期リハビリテーション病院へ入職。回復期リハ、外来リハ、訪問リハ、障害者病棟を経験。2016年、復興支援を目的に、既に単独型訪問リハステーションを運営していたロッツ株式会社に入社し、3年間訪問リハ部門の責任者として勤務。現在は、首都大学東京大学院 人間健康科学研究科修士課程に在学中。その他、認定理学療法士(脳卒中・地域理学療法)、認定訪問療法士を取得。介護支援専門員の資格を持つ。

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